『自由を盗んだ少年—北朝鮮 悪童日記』 コッチェビとなって北朝鮮で生きる在日三世たち

自由を盗んだ少年——北朝鮮 悪童日記』帰国事業で北送された在日朝鮮人の子孫の話が出ていたので紹介します。

噂話しなので本当に在日朝鮮人の子孫なのかは不明ですが、90年代から00年代初頭に北朝鮮を援助せず、体制変革へと導いていれば、この子孫と日本に残る親族が感動の対面を果たすこともできたかもしれません。おしいチャンスを逃しました。

 

青龍派コッチェビ

一九九四年のある日、清津駅で空腹そうな一人の子どもに食べ物をあげた。ぼくより何歳か上に見えたが、その子はやつれて辛そうだった。そのとき、ぼくは大きな収穫を得てお腹もいっぱいだったし余裕があった。彼はおもに列車で攻撃手をしていた子だったが、清津駅に出てきたものの、列車が何日も停まっていたため、仕事もできず、途方に暮れていたときに、ぼくに会ったのだ。

数ヵ月後、再び清津駅で会ったとき、彼はぼくのことを憶えていて借りを返そうと思ったのだろう。

「君、寝るところはあるの?」
彼の口から思わぬ質問が出てきた。
「まあ、寝るところはあちこちあるけど……」
ぼくが言葉をにごすと彼はいった。
「寝るところがないならぼくと一緒に行かない? 君、青龍派って知ってる?」
「青龍派?」

青龍派といえば、清津のコッチェビなら誰もが憧れるあのコッチェビ組織のことか? 話を聞くと彼は青龍派とつながりのある子だった。

青龍派は清津駅周辺では有名なコッチェビ組織だった。市場の人たちも彼らを恐れていた。彼らが市場に入った瞬間、すべてが瞬くまに起こって売り物がかっさらわれ、通り過ぎた後には何も残っていないといわれるほどだった。

その組織を率いるリーダーの名が「青龍」だった。本名かどうかはわからないが、清津のコッチェビたちは誰もが青龍派に入りたいと思っていた。

彼の両親は在日同胞だという噂だった。通常ぼくたちの間では在日同胞を「チェポ」と呼んだ。彼の親は反体制的発言をして収容所に送られ、青龍はおばあちゃんと暮らしているといわれていた。年齢は二六~二七歳ぐらいらしい。怖い人でケンカが強く、安全員たちも彼にはむやみに手を出せなかった。

彼は腕利きのコッチェビばかり10人ほどを抱えていた。ぼくが清津駅で会った子は青龍派の正式メンバーではなかったが、青龍と知り合いなので、その家にたまに立ち寄って休むことがあるらしかった。

清津駅から山のほうに向かうと、山に貼りつくようにして村がある。その子がぼくを案内したのが、そこだった。村の小さな市場の近くに青龍の家があったと記憶している。古い一軒家だったが、一〇〇坪はある大きな家だった。

家には獰猛なジャーマン・シェパードがいて、部外者の出入りを徹底的に見張っていた。有名なムンチャギ(空き巣)の一人が盗みに入ろうとして、シェパードに噛まれ大けがをしたという逸話も残っている。

青龍がメンバーに選ぶのは感覚が鋭くて手際のよい子だけで、その選ばれた数人はその家で寝泊りさせてもらえた。家には二人の女性も一緒に住んでいた。一人は家事をする女性で、もう一人は青龍の恋人だったが、二人とも高校を卒業したばかりと思われる若い女性だった。その当時は誰もが大変だったときで、家を出て放浪生活をしている女性も珍しくなかった。

コッチェビたちが青龍派に入りたいと熱望する理由は、こころおきなくコッチェビ生活ができるからだった。コッチェビたちには、いつ何が起こるかわからない、自分たちの過酷な運命を守ってくれる支えが必要だった。もしへまをして当局に捕まっても青龍はコネを使ったり、直接(安全部に)お金を払ったりして、仲間を助けてくれた。組織は、彼らに安心感を与え、さらに彼らを忠実にした。

青龍派のメンバーは、各自が自分のやり方で得た収穫の一定量を捧げるだけで、組織の長である青龍の保護を受けることができた。お金を専門に盗む子はお金を献上し、米を盗む子は米を捧げるだけだった。それを果たせば。残りは各自の自由だった。

安全員たちも、彼らに報復されることを恐れ、むやみに手出しはしなかった。何より安全員たちは青龍派からしょっちゅう賄賂を得ていたので、組織に手を出す理由がなかった。

女性を含めせいぜい10人ほどで構成されたこの組織は、主要メンバーの数を厳しく制限していた。組織が大きくなりすぎると、管理しきれなくなり、組織に害を及ぼす人間が入ってくる可能性がある。だから、メンバーを選ぶときは、いつも徹底的に選別し、少数精鋭を維持していた。もしも捕まえられたときは、守らなければならない絶対原則があって義理も非常に重視された。いずれにしても、組織について絶対口外してはいけないとされた。

ぼくはそこで出されたご飯を食べて服も洗濯してもらい、足を伸ばしてぐっすり眠らせてもらった。噂に聞いていた組織の実態を自分の目で確認できたことは、衝撃的だった。当時のぼくの実力では仲間に入れてもらうことなど叶うわけがなかったが、いつか実力をつけて青龍派に入りたいと強く思った。

自由を盗んだ少年——北朝鮮 悪童日記』P98-102

北朝鮮体制変革のチャンスを逃して20年。直接関わりの親族も死んでいって、帰還事業も風化中です。

必死に北朝鮮で生き抜く在日三世・四世たち。済州島四・三事件や在日韓国人良心囚問題、慰安婦問題や植民地支配の歴史論争などなど、これらには大変情熱的に活動するのに、こういう人たちに限って北朝鮮の人権問題や帰還事業で北送された在日同胞の保護や自由往来を求める活動はまずやらない。

まぁ厳密にいうと、やってたがまったく要求に応えない北朝鮮のおかげで結果が出ず、結果がでないせいでどんどん活動疲れであきらめが蔓延してしまった、という感じでしょうか。

この辺は拉致問題も同じかもしれません。

自分自身の問題として必死になれる、拉致被害者家族、特定失踪者家族、帰還事業被害者家族、脱北者、こういった人たちが一致団結して問題解決のために動くべきだろうと思います。

日本人も韓国人も、しょせんは他人事ですからね。冷たいもんですよ。

韓国の脱北者は、ロウソクデモや慰安婦問題の力が、北朝鮮の人権問題に対して発揮されないことを嘆いていました。まったく同感です。

日本も同じで、ヘイトスピーチ撲滅の情熱や、朝鮮学校擁護の情熱が北朝鮮の人権問題に対して発揮されないことも残念極まりないです。

善意で反ヘイト活動をやっている人も大変ですよ。運動体の中に親北さんが混じってますからなにかと足を引っ張られる。常軌を逸した嫌韓右翼に足を引っ張られる保守と同じ構図ですね。

やれやれです。

今後も萎えることなく、頑張って脱北者の手記や証言から在日朝鮮人や日本人配偶者たちのことを丹念に拾っていきたいと思います。

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