慰安婦ハルモニが死んだら韓国国内で支援団体への復讐が始まる

予想ですが、慰安婦ハルモニが死んだら今まで支援団体の横暴の被害にあった人たちの復讐が始まると思います。

具体的に言えば挺対協への復讐。

慰安婦ハルモニに疑問を呈したり批判をしたら「訴訟」と「暴言」と「物理的圧迫」という言論弾圧を繰り返してきたわけです。それができるのも自由にコントロールできる慰安婦ハルモニという鉄壁の盾があるから。

慰安婦ハルモニが全員死去してその盾が無くなったら散々ひどい目にあわされてきた人たちが反撃を開始すると思われます。

韓国内でも次のような意見が出ているわけですから、復讐戦の準備は着々と進んでいると思われます。

 

「李容洙という証言がコロコロ変わる元慰安婦は一体何者なのか?」というスレッドがたち、興味深い議論がなされています。

一番初めの問題提起はこれ。トランプとも抱擁をした李容洙という元慰安婦ハルモニの過去の証言を取り上げています。

1. 韓国人(スレ主)

1. 強制動員に対する証言

1993年の最初の証言

私と同い年の友達の中に、キム・ブンスンという子がいました。その母親は酒屋をしていました。

ある日、私がその家に遊びに行くと、その母親が、「あんたは靴もまともなのを履けないのか?何それは?うちのブンスンが案内するから、あそこに行って来なさい。そこに行けば靴はたくさんあるし、ご飯もたくさん食べられる。あんたの家を楽にすることもできる」と言ってきました。うちは当時、貧しかったので何も言えませんでした。

それから数日が経ち、ブンスンと川辺にいたところ、丘の上に見知らぬ老人と日本人の男が立っていました。老人が指で私たちの方を指すと、男はこっちに向かって降りてきました。老人は間もなくその場を立ち去りました。男は私たちに身振り手振りで、こっちに行こうと言ってきました。私は怖かったが、ブンスンは気にせずその場を立ち去りました。

それからまた数日が経ったある日の明け方、ブンスンが、うちの家の窓を叩きながら「黙ってついてきて」とヒソヒソ声で私を誘ってきました。私は母には何も言わず、そっとブンスンの後について家を出ました。案内された先に行ってみると、先日、川辺で見かけた日本人の男が立っていました。彼は40歳ちょっと前に見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。彼は、私に包み一つを渡してきました。中には、赤いワンピースと革靴が入っていました。それをもらって幼な心にどれほど嬉しかったか計り知れません。それで、後先考えずに、男について行くことにしました。私を合わせて、少女は全部で5人いました。

私たちは駅に向かい、汽車に乗って慶州まで行きました。私はその時、生まれて初めて汽車に乗りました。慶州につくと、どこかの旅館に入りました。旅館前の小川で手を洗っていると、山の斜面に紫色の花が一輪咲いているのが見えました。生まれて初めて見る花だったので、あれは何の花かと聞くと、キキョウという花だと言っていました。

それから二晩かをそこで過ごしました。後から、女性2人も連れてこられ、女性は全部で7人となりました。

慶州から汽車に乗り、大邸を通りました。走る電車の割れたガラス窓の向こうに我が家が見えました。その時になってようやく家のことを思い出し、母に会いたくなり泣きました。

服の入った包を投げ捨て、これはいらないから家に帰してくれて泣き続けました。そして、泣き疲れて眠り、どれほど行ったのか分かりませんが、数日が経ったようでした。

これを読む限り、日本軍によって強制連行されたというより、ブンスンの母親に売り飛ばされたか、きれいな服に釣られて行ったのか、そんなふうにしか思えない内容である。

2004年の証言

大邸の古城洞で16歳まで暮らし、1943年の夏に、鼻と口以外見えないほど深く帽子をかぶった日本軍人が、近所のお姉さん4人と共に、強制的に連行しました。

どこに行くのか、なぜ連行されるのかも分かりませんでした。

窓がない汽車に私たちを乗せ、抵抗すると、「朝鮮人」と言いながら足で踏みつけ暴行を加えてきました。家に帰ると言えば再び殴られました。あまりにもたくさん殴られて、歩くこともできないほどでした。

我々が一般的に考えるイメージだね。
日本軍人が、何も知らない女たちを連行したという話に変わった。

2006年の証言

15歳だった1942年頃、自宅で寝ていたら、日本軍によって台湾に連行された。

寝ている時に連行されたということになる。

2014年の証言

15歳になった年のある日、日本軍人が「こっちに来い」と手招きをした。怖くなって逃げたが、別の日本軍人に捕まり、汽車に乗せられ台湾の日本軍部隊に連行された。

話が行ったり来たりする。何が真実なのか?
この部分は非常に重要な部分であり、曖昧であってはいけない。

もちろん、性暴行を受けた後、深刻なトラウマで記憶が曖昧になっている可能性があるものの、このような事実と異なる話や矛盾が生じたら、記憶が曖昧という一言で済まさず、なぜそのような矛盾が生じたのかをしっかりと検証しなければならない。しかし、この部分に対する検証はまったくない。

しかも、記憶が曖昧とするには難しい点が、93年の証言では、国民服に戦闘帽をかぶった40代の男性とかなり具体的に示しているが、この証言を無視して、話が行ったり来たりさせるのは、証言に対する信頼度を大幅に低下させる。

また、帰国後の人生に対する証言も、これと同じく一貫性がない。

2. 帰国後の生活に対する証言

1993年の証言

台湾で2年間過ごし、帰国後、飲み屋の従業員や家政婦など、底辺生活を迷走し、家族の粘り強い説得で、60歳の1987年に、8人の子供がいる75歳の老人の後妻となった。

しかし、その5年後、認知症をわずらった夫の横暴と暴力、家族の冷遇を受け、慰謝料も受け取れず離婚した。

帰国後、きつい仕事を転々とする中、75歳の老人の後妻になり、離婚…

1999年の証言

日帝時代、小学校を中退し、夜学で漢文などを学んだが、16歳の1943年に、日本軍慰安婦として連行され、台湾で苦労し、解放翌年の1946年に帰国した。以後、結婚をせずに、保険会社などで働きながら一人で生活する。

1992年に日本軍従軍慰安婦被害者として申告した後、毎週ソウルの日本大使館前で開かれる水曜集会に参加している。

突然、保険会社の話が出てきて、75歳の老人の話は消えた。

3. 助けてくれた日本の将校の証言

1998年の証言

16歳の時、日本軍の兵舎に入ることを拒み、殴られて瀕死の状態となったが、21歳の将校に助けられ命をとりとめた。この将校は、戦争が終盤になった頃、「死にに行ってくる」と言い残して、帰ってこなかった。

名前も知らない将校だったが、1998年に台湾を訪れ、人形に「ハセガワ」という名前をつけ、霊魂結婚式を行った。

2015年の証言

17歳の時、神風特攻隊の中にある慰安所に連れて行かれ、若い日本兵と会った。その兵士は、慰安所で拷問を受け、満身創痍となった私に「トシコ」という名前をつけた。

1998年に日本で、私を助けてくれた兵士の名前が、「ハヤカワキクショニ」であるということが分かった。

ハヤカワはある日の夕方、イ・ヨンス氏に「明日死ににいく」としながら詩を読んだ。

「トシコ、君の両親は別にいて、私の両親も別にいる。私が明日死ねば星が一つ落ちるだろう」

ハヤカワは、次の日にはいなかった。その後も、彼を待ったが、戻ってこなかった。彼は1945年5月に、沖縄戦で死んだという。

突然、本名が出てきてドラマチックな話が付け加えられた。
1998年にどんな経緯で、その情報を知ることになったかは、いくら調べても出てこない。

翻訳元:http://www.ilbe.com/10248985831

まぁ証言がコロコロ変わってます。

あと脚色してるんじゃないの?と思われる個所が随所に散見されます。

韓国内から本物か?と疑う声が出てくるのも当然。

そして、スレッドが立つきっかけとなったのが冒頭の写真。

「米国野郎」と罵りながら「サードを配備するな!」と街頭演説。

女性の人権はどこにいった?

なぜ韓国の安全保障の問題にこの人たちが声をあげだすのか?

こういう姿に韓国人も違和感を覚えたのでしょう。その後のコメントでも韓国でも真実が広まってきているな~ということが分かります。

(次ページに続く)