『北朝鮮脱出 地獄の政治犯収容所』 帰国した在日同胞の慟哭

 この本は、強制収容所から脱出した方の手記です。この強制収容所の実態を知らずに、北朝鮮は語れないでしょう。

北朝鮮脱出〈上〉地獄の政治犯収容所 (文春文庫)』 P65-67、121-123


 私たちは金日成、金正日の写真に最敬礼をして新年の挨拶を捧げた。そばで監督がお辞儀の仕方を監督し、お辞儀がすんだ家族の名前を名簿に記入してから帰してくれた。家に帰った祖母は胸を叩きながら嘆いた。
 「私は死ななければならない。私は気が狂っていた。私はどうして共産党なんかに入ってしまったんだろう。このままでは死んでも死にきれない。ああ、私の愚かさをどのようにして償うことができようか。私だけが苦労して死ぬのだったら、どんなに幸福だろうか。こんな生地獄に息子だけでなく孫も住まわせるとは……。ああ、この私の罪をどうしよう」
 祖母はとめどもなく泣いた。私と美湖はは寒くて古い毛布を頭からかぶっていたのだが、祖母の嘆きを子守り歌にして寝てしまった。
 「やっ、白いご飯だ。おばあさん、これ僕が食べてもいいの?」
 朝ねぼうをして起きてみると正月の元旦だった。祖母は元旦の朝ご飯の準備をしていた。やがてお膳をかこんで家族が座った。
 「哲煥。お正月だからおばあさんに新年のご挨拶をするんだよ」
 父に言われて、私と美湖は祖母に丁寧に新年の挨拶をした。
 すると祖母はうしろを向いて座って涙をふいた。
 「おやめなさい。このおばあさんは、あなたたちからお辞儀を受ける資格がないよ。あなたたちのお祖父さんとお母さんは、どこでどう過ごしているのやら……」
 「お母さん、今日はそんなことおっしゃらないでください。取り返しのつかないことは、考えないにかぎりますよ」
 しばらく経って父は沈痛なおももちで帰って来た。祖母が父に尋ねた。
 「どうしたの」
 「死人が出たんです」
 「誰が……?」
 「お母さんは心配しないで」
 「念をおしておくけど、あなたたちはここでどんなひどい目にあっても、絶対にみずから命を断ってはだめよ。私ほど、死にたい思いで生きている人はいないだろうと思う。一日に何十回、いや一時間に何十回も死にたいと思うのよ。でもこれは、私の罪の代償だと思ってがまんしているの。死にたくてもあの子たちのことを思うと……。あなたたちもあの子たちのことを思って、どんな苦労をしても生き抜いてちょうだいね」
(中略) P121~
 私の祖母にとっては日本が故郷だといっても過言ではなかった。十三歳のとき日本に渡り、五十を越えるまで日本に住んでいたのだから、朝鮮語よりも日本語のほうが達者なくらいであった。家でもよく日本語でおしゃべりをしていたし、祖母の父親は、彼女のことを朝鮮の名前ではなく「としちゃん」と日本の名で呼び、父と母も日本語で話をしていた。
 祖母は故郷に帰るのだと言い張って帰国船に乗りはしたが、北朝鮮は決して祖母の故郷にはならなかった。「原地民」より僑胞とか日本人と親しくつきあい、話もはずんだ。帰国者の集落の日本人妻たちは、肉体労働やひもじさよりも、外の世界と断絶された環境により耐えられなかったらしい。ある日突然、家族や知り合いと音信不通になり、生死もわからなくなったということは、彼らにとってたしかにがまんできない苦痛であったろう。
 ある日、叔父が少し遅く帰ってきた。
 「昨日、食料工場で一緒に働いていた帰国者の妻が死んだそうです。そこにちょっと寄っていたため帰ってくるのが遅れたのです」
 私も日本の大学で栄養学を勉強したという帰国者が、叔父と一緒に働いているという話を聞いたことがあった。
 「奥さんが日本人だという人のことかい」
 「はい」
 「で、なんの病気で」
 「かぜを引いたらしいんですけれど、急性肺炎になってしまった様子です」
 「その家には子供もいるのかい」
 「はい、中学校に通っている娘と息子がいるそうです」
 祖母は深々とため息をついた。他人ごととは思えないようであった。
 「日本では、こんなことが起きているなんて、夢にも知らないだろうに……」
 「知りようがありませんね。私たちだって平壌に暮らしているとき、こんなところがあるなんて、想像すらしなかったではないですか」
 「一昨日新しく入った人の話によると、平壌では最近も帰国者の世帯が次々とどこかへ消えてゆくそうです」
 叔父はつけ加えて言った。
その頃、収容所では毎日のように新しい入所者がいたが、大部分が帰国者と外国留学生たちであった。
「こんな調子では日本からの帰国者はみな殺しの憂き目にあいそうだな」
 「第二次大戦のときにヒットラーがユダヤ人を大虐殺したのと同じようなことらしいな」
 私はそのとき、ドイツという言葉と、ユダヤ人という言葉を初めて聞いた。
 「叔父さんユダヤ人って何?」
 と私が尋ねると、叔父は、
 「おまえはまだそんなこと知らなくてもいいよ」
 と言って話題を変えた。
 「共産主義というのはこんなはずではなかったのだが……みんな同じように分け合って食べ、そしていい暮らしをしようという主義だったのに」
 祖母はこうなってもまだ、共産主義に未練が残っているらしかった。
「どんなことをしてでも生きてここを出なければならない。ここで犬死にするわけにはいかなにい、そうだろう?」
 祖母は自分にムチ打つように、同じような言葉を何度も何度もつぶやいた。



 家族をこんなところに連れてきてしまったと、何度も何度も後悔し、死にたくとも家族を思えば死ねない。なぜなら自殺は金日成主席様に対する反逆とされるからです。残された家族がひどい目にあわされると分かっていて自殺などなかなかできないでしょう。死ぬ自由さえない、これが北朝鮮の現実です。今は違うという人達もいるでしょう。ですがこの過去を語り継がなくてどうするのでしょうか?他でもない在日同胞のウリハッキョである、朝鮮学校で教えなくてどうするのでしょうか?

 ほとんどの人は皆死んで平土(ピョンド)にされました。脱北者という生き証人の証言が、細い細い糸の上を渡って、気の遠くなるほどの距離を渡り切って、日本に届いた魂の叫びであるはずです。

 これを無視し、「敬愛する将軍様」が乱舞する教科書で授業を行う。こんな残酷な教育はないと思います。朝鮮学校は狂っています。最大の被害者はこの学校に通う子供達でしょう。朝鮮民族を大虐殺した首班を愛するように教育する。何も知らない子供を使って、自分達の先祖の魂を踏みにじらせています。ありえない暴挙と言えます。

 多文化共生や、民族教育の名のもとに、この学校の教科書を黙認人達は猛省してもらいたいです。そして、朝鮮学校が真の民族教育に更生し、存続していくために声をあげてもらいたい。そう切実に願っています。

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