『韓国は消滅への道にある』光州事件の実態 戒厳軍ライフルでの死者は皆無

神格化が著しい韓国の「光州事件」。

もはや疑義を差しはさんだ瞬間訴訟になってひどい目にあうまでに聖域化されています。

この辺は慰安婦問題と同じですね。

聖域化された「光州事件」ですが、左派から言論弾圧を受けるリスクを覚悟で真実を広めようとしている人たちもいます。

こういうことをするとすぐに右翼呼ばわりされますが、ただ単に真実を追い求めているだけ。

その人たちの見方を紹介しておきます。

 

 

正体不明な「市民軍」による銃撃戦(五・一八光州事態)

一九八〇年五月に光州で起きた事件は、韓国では「五・一八民主化闘争」と呼ばれているが、そう呼んでよいものかどうかいまだに議論の余地がある。事実関係だけをもとに事件を再構成すると、概略、次のようになる。

前述したように一九七九年十二月、全斗煥を頂点とする「新軍部」が実質的に権力を握ったが、それをすぐには行使しなかった。それから、つまり一九八〇年一月から三月頃まで韓国の政治は、民主化が達成されたかのような百花斉放といった雰囲気であった。いわゆる「ソウルの春」といわれた時期で、金大中、金泳三、金鍾泌の「三金時代」ともいわれた。民主化要求の学生デモもたけなわであった。政治は無秩序、社会は混乱の極に達した。学生デモは漸次、暴力化した。そのピークが一九八〇年五月十七日で、荒れ狂った学生デモ隊がソウル駅から南大門の街路を埋めた。何人かの学生は民間バスを奪取し、警備にあたっていた機動警察隊員を轢き殺した。まったく統制不能な事態に立ちいたった。

このような事態に前後して、金大中氏が逮捕された。逮捕容疑は、内乱陰謀及び煽動である。彼が内乱陰謀嫌疑を受けたのは、五・一八光州事件がはじまる一週間前にさかのぼる。一九八○年五月十一日、金大中氏は全羅北道井邑(チョンウプ)で行なわれた「東学祭」に参加して、「東学党の武装蜂起は民主主義革命だ」と演説した。これはまったく牽強付会で荒唐無稽の論理だ。なぜかというと、東学は西洋の民主主義文化に対抗するためのイデオロギーなのに、それがどうして西洋の民主主義革命になるのかである。

論理的な疑問はともかく、金大中氏は井邑で束学農民蜂起の再現を煽る演説をした日の夜、上京して十二日の早朝、ソウル平倉洞(ピョンチャンドン)にある北岳パークホテルに革命同志を招集し、光州での東学乱再現のための戦略会議を開いた。この会議には、全国大学総学生会を遠隔操縦している民主青年協議会幹部をはじめ、李文永(イ・ムンヨン)(高麗大学教授、金大中の側近、理論分子)、韓勝憲(ハン・スンホン)(弁護士、金大中政権下でナンバー3の座である監査院長)、文益煥(ムン・イクファン)(牧師、金大中の側近、金日成の朋友)ら反体制派の主要人物が出席していた。

この会議の三日後、ソウル市内の各大学で学生会主導の学内デモが一斉にキャンパスを出発し、市内で大規模なデモを行なった。その二日後の五月十七日、すでに設置されていた戒厳軍当局は、ソウルの梨花(イファ)女子大学に集まっていた各大学の活動家幹部を一網打尽にする。金大中氏はその首謀者として逮捕された。

全羅南道の光州での最初のデモは一九八〇年五月十八日午前九時頃、光州市内にある全南大学生二〇〇人が大学正門で警戒態勢にあった戒厳軍に対して、図書館の出入りをなぜ禁止するのかと抗議することではじまった。戒厳軍の指揮官は、布告令に従って学内活動を禁止すると応じた。学生たちはあらかじめカバンやポケットに準備していたと思われる小石を戒厳軍目かけて投げつけた。この投石によって顔から血を流す将校の姿も見られた。それでも隠忍自重、戒厳軍はなんら反応を見せなかった。

ところが、学生たちは理由なきまま激高しだした。11時頃に学生たちはキャンパスを出てすぐに市民と合流し、怒号しながらデモは拡大していった。そのスローガンは、「金大中先生を釈放しろ」「殺人魔全斗煥を殺せ」といったものだった。流言飛語も飛び交った。「軍人が女子学生を裸にして乳房を銃剣で刺している」「慶尚道の軍人には、全羅道の道民を皆殺しにせよとの命令が出された」と途方もないデマが市中に広まった。なんら根拠のないデマでも、学生らを激高させるに十分だった。

そんななか、市内の派出所、放送局や官公署はどこも火炎瓶が投げつけられた。そして正体不明な「市民軍」を名乗る武装集団が突然あらわれ、移動中の第二〇師団を奇襲、トラック14両を奪い、さらには軍の補給所や郷土予備軍の武器庫などを襲撃して各種車両二〇〇両、装甲車二両、武器弾薬を奪い、ところがまわず無差別に射撃しだした。これが激高した学生らの暴挙なのか、それともなにかを狙って訓練された集団の行動だったのかは定かではない。

五月二十六日から二十七日まで続いた銃撃戦を伴う暴動によって民間人一六二人、軍人二三人、警察官四人など一八九人の犠牲者を出した。戒厳軍当局は、民間人の死亡者一六二人を検死して死因を糾明した結果、郷土予備軍の武器庫に保管されていた口径七・六二ミリのM1ライフルとM2カービンによる銃創が一一七人、打撲傷が一八人、手榴弾による破片創が一二人、刺傷が一一人、火傷が四人と判明し加。結局、口径五・五六ミリのM秒フイフルだけで武装していた戒厳軍によって射殺された犠牲者は、皆無ということになり、正体不明の市民軍による無差別射撃による犠牲者が大部分という調査結果となった。

ところが同一の事件でも、韓国では政治権力のいかんによって、その名称すらも変わる。一九八〇年代まで「光州事態」と呼ばれてきたことが、一九九二年に民主化闘士とされた金泳三氏が大統領になると「光州民主化闘争」となった。しかも裁判で死刑判決を受けた金大中氏をはじめ暴徒と化した者も、再審要求によって同じ大韓民国の司法府は、彼らを「民主化闘士」として、あろうことか「国家有功者」との名誉まで授け、それには巨額な報償もともなった。過去にまったく判例もないなかで、あらゆる法解釈が革命的にひっくり返ったのである。

光州には、民間人犠牲者のための望月洞(マンウォルドン)共同墓地があり、国立墓地とされて毎年、紀念式典が行なわれている。式典には政府首脳も参列し、金日成を称えるため作家の黄皙英(ファン・ソクヨン)が作詞した「ニムルウイハン(いとしの君のための)行進曲」を歌うよう強要されている。いかにも滑稽きわまりないことであるが、誰もあえて反対の声をあげない。これだけを見ても韓国は、言論の自由も本当の民主主義も許されておらず、ある種の一部民衆によるデモ万能の独裁国家ともいえる。

光州には現在、金大中コンベンションと名付けられた巨大な建物があるが、それだけでは満足しない金大中氏の追従者や一部与党の国会議員まで関与して、数兆ウォン規模の紀念館を建設するための特例法を通過させている。韓国は今、一時は国家に反逆した人物による赤色革命が進行中なのである。

韓国は消滅への道にある』P102-106

凄い話です。

この事件が次々映画かされ、民主化闘士たちの聖戦となっています。

トラックを奪って、武器庫を襲い、武装して銃撃戦を繰り広げる人たちが「民主化闘士」で「国家有功者」ですから。

こんなもん軍隊が出動して取り締まられて当然でしょう。

しかし、そんな意見は言えない。

なにせ「ある種の一部民衆によるデモ万能の独裁国家」ですから。

光州事件は左派政権が誕生するたびに映画化されて、どんどん神格化に拍車がかかります。

学者の冷静な意見など無視です。無視どころか訴訟を起こされて口封じをさせられます。

謎の市民軍は「北のスパイ」という写真という証拠付きの主張も黙殺です。

1980年5月光州で撮影された人物(左)が2010年5月平壌に登場(右)(写真=ニュースタウン)
光州市民に武装蜂起を促す北韓特殊軍

5.18光州事態は「民主化」運動だったのか 韓国現代史の暗黒期を開いた「5・18光州」と「セウォル号事態」』より

もちろん似てるだけで、ただの偶然の一致ということもありえます。

それはそれで、今では科学も進歩していますか骨格から同一人物か判定することもできるはず。

それをやって潔白を証明すべきでしょう。

色んな比較写真(光州事件のときの写真と北朝鮮報道などに移っている幹部たちの写真を比較している)がありますが、個人的はどちらに対しても半信半疑です。

こんなのとか。

こんなのとか。

こんなのとか。

こんなのまで。

似てるっちゃ似てるけど、モンゴル系の韓国人顔ってどこにでもいるでしょ?という気もする。

まぁさっさと科学的な検証でもしてハッキリさせるべきでしょう。

当時の誰も名乗り出ない。不毛な議論を終わらせるためにもさっさとやるべきです。

そもそも正体不明の市民軍(約600人)が名乗り出てこない時点でかなり怪しいですよね。

これが神格化された光州事件の実態です。

左派はこの不都合な真実を無視してひたすら政府批判です。

聞く耳ナッシング。

さらには映画化を通して自分たちの信じていることを真実にするためにひたすら活動。

いつの間にか話を盛りに盛って神格化したストーリーが真実の歴史となっています。

凄いわ、この人たち。

韓国左翼に比べたら、日本の左翼はかわいいもんですね。

 

『韓国は消滅への道にある』、韓国保守サイドからの歴史認識がよくまとまっている良書。おすすめです。