『韓国の民族意識と伝統』在日朝鮮文化人への疑問 その4 統一すればすべて解決というが統一するまではどうするのか?という省察はない

日本政府にわれわれの要求を通させる運動がある、といういい方がなされるかも知れない。それはそれで重要であろう。しかし、それだけでは在日朝鮮人の幸不幸は、すべて日本政府の手に握られているということになるのではないか。民団が出した『差別白書第一集』には「(在日韓国人の青年を)よくもし、悪くもするものは、要するに日本社会の対応如何にあるということを忘れてはならない」という言葉があり、在日朝鮮人を全く受動的存在としてしか捉えていないが、それでもいいのだろうか。先に私が在日朝鮮人の文章には「人間としての苦悩が見られない」とか「自分が出てこない」といったのは、このことに関係している。能動的存在には否応なしに襲いかかる内面の葛藤があるが、受動的存在にはそれがないからだ。

「在日韓国人の青年を良くも悪くもするのは日本社会の対応如何にある」

ダメ人間の典型例のようなことを言ってますね。

仮に「わが子を良くも悪くもするのは日本社会の対応如何にある」なんて言う親がいたら責任放棄か!?甘えんな!!となるのに、なぜか特定民族になるとこういう意見が堂々とまかり通ります。

この考え方は、これから自分の人生を生きる在日コリアン一人ひとりをバカにしてます。日本次第ですべてが決まる従属変数に貶めているわけですから。

そうした受動性は、在日朝鮮人が在日するに至った過去――日本帝国主義によって強制連行されたものであって自由な「移民」ではないということ――は多く語られても、解放後、自己の選択が可能になった三十余年の間の「なぜ日本にいるか」が語られないことにもよくあらわれている(解放後、自己の意志で日本に渡ってきたにもかかわらず、強制連行者の代弁者のごとく語る人までいる)。過去を語ることも日本人の〝教化〟にはなにがしか役立つかも知れない。しかし、暴力によって運命づけられたという面からのみの論は、たとえ共感を呼ぶとしても、あわれみや救援のレベル以上には出まい。

「解放後、自己の意志で日本に渡ってきたにもかかわらず、強制連行者の代弁者のごとく語る人までいる」

いますよね、こういう人たち。

そしてこれをやればやるほど「たとえ共感を呼ぶとしても、あわれみや救援のレベル以上に」ならないわけです。

ひたすら気の毒だ、可哀そうだと思われる存在になりたいと思いますか?

そんなことで民族意識や在日アイデンティティを確立するより、芸能人やスポーツ選手、企業人として成功者した人たちがわんさかいるわけですから、そういう人たちに注目して誇りを抱けるように教える方がよほど建設的でしょう。

「蔑視」の逆は「非蔑視」ではなく、「尊敬」のはずです。

こうした状況に対抗するものとして「民族主体性」とか「民族意識」の堅持ということがよくいわれる。だが、それは観念的に強調される「朝鮮人であること」と、具体的に進行している日本化との裂け目を一層のぞかせるようなことになっていないか。

ここ数年来、在日朝鮮人で日本生まれの人の占める割合が圧倒的に大きくなり、祖国を知らない世代が八割近くなったということと関連して、在日朝鮮人の間では民族意識の風化現象ということがしきりに語られている。それらの議論に共通しているのは、日本生まれの在日朝鮮人に民族意識が風化するのは必然だという認識であり、それが憂慮の中心になっている。確かに本国の風土、風俗習慣のなかで育まれたエトスが、日本生まれに見られなくなるのは当然のことといえよう。もっとも総連は、そういう一世と二、三世の差異をいうのは、祖国統一のためにひとしく尽くしている同胞の一世と二世との間にクサビを打ち込もうとする悪質な論議だと非難しているが、差異自体は厳然とした事実である。

開題はそういう差異をどう克服するかということであろう。差異がない、とする人たちに本気な対策のありようはないから除くとして、民族意識の風化を憂える人びとの文章を読んでみても、その克服はやはり「民族意識を獲得しなければならない」という教訓に帰するようだ。しかし、議論の始まりは、二、三世の民族意識が風化するのは必然だから憂慮されるということではなかったか。その解決の処方が民族意識を獲得せよというのであれば、これは何もいわなかったのと同じではなかろうか。

面白いですね。

「在日朝鮮人の間では民族意識の風化現象」が懸念されているが、それは「日本生まれの在日朝鮮人に民族意識が風化するのは必然だという認識」が前提としてあるのに、対策が「民族意識を獲得しなければならないという教訓」の掛け声で終わるだけ。

例えるなら「敵を知り己を知れば百戦危うからず」とひたすら念仏のように唱えるだけで、実際に相手のことを調べたり、自分の戦力を客観的に検証しない、という状態でしょうか。

いうところの「民族意識」が、本国で育つたか否かが決め手になるような性格のものを指すのであれば、そうした「意識」を日本生まれの若者に要求するのは、できない相談である。それに一世の民族意識とて、それは環境から与えられたものであって獲得したものではない。いわば相続された遺産である。民族意識の風化を憂える声が、遺産の食いつぶしを心配するような消極的な色合いをもつのは自然であろう。したがって、それが在日朝鮮人を受動的存在から能動的存在へ転回させるテコになりうるかについては、具体に即したよほどの発想の転換がない限り、疑念を抱かざるをえない。

一九七二年、ソウルにいたとき、在日朝鮮人子弟の留学生が同胞文筆家の書いたものを全くといっていいくらい読んでいないのに驚いたことがある(前掲拙著「〈敬〉と〈偏見〉と」参照)。彼らはそれらの著作物が日本人向きかタテマエ論に終わって、自分たちの魂の渇きをいやしてくれるものではないと判定していたのである。だが、同胞子弟に読まれない書きものでも、日本人には賞賛されるというのが現実である。冒頭に述べた尹学準氏のエッセイにあるような形で。しかし、在日朝鮮人と日本人とが煙に巻いたり巻かれたりする関係にはもう終止符を打ちたいものだ。でないと、朝鮮は双方によって永久に観念の玩具にしかならないからである。

「「民族意識」が、本国で育つたか否かが決め手になるような性格のものを指すのであれば、そうした「意識」を日本生まれの若者に要求するのは、できない相談」

その通りなんですよ。日本で生まれ育ってるのに朝鮮民族を強調し続けるのは無理がある。

その無理を、無理に押し通そうとするから朝鮮学校から生徒どんどん減るわけです。

祖国が魅力的な国ならなんとか踏ん張れるかもしれませんが、世界中見渡しても並ぶものがないほどの独裁国家なわけです。

こんな国から教育援助金をもらったからと感謝しようと教育されても、どうやって共感しろというのか?犯罪者から金をもらったら普通警戒しますよ。民族意識の風化は必然なのに、追い打ちをかけるように歪みまくった民族教育を子孫に押し付ける。

これで在日コリアンの子孫として生まれたことを誇りに思える方が不思議です。むしろ、生まれながらにいろんなクソめんどくさいことを背負わされて嫌になること間違いなしです。

必要なのは「在日朝鮮人を受動的存在から能動的存在へ転回させる」ことでしょう。

もし朝鮮民族としての誇りを持てるような、能動的存在になりえるとすれば、それは北朝鮮の独裁体制打破に情熱を傾けることでしょう。

韓国の民主化運動に積極的に活動したときと同じように行動すればよいだけです。

それとも、70年代に韓国民主化運動を応援したことは、民主化という大義ではなく、当時の韓国に擁護的であった米国や自民党への反対運動の延長でしかなかったのでしょうか?

正直、70年代の韓国と現在の北朝鮮への対応の落差を説明するのに、韓国民主化を隠れ蓑にした反米・反自民運動でしかない、という理由があてはまるような気がしてならないです。

「統一すれば万事解決」などという詐欺言論をまき散らす暇があるなら、統一のためには北朝鮮の独裁体制を終焉させる方法を考えるべきでしょう。

もし朝鮮学校支援者が、大阪府庁前で演説しているように本当に「立派な朝鮮人」を育てたいのであれば、北朝鮮の実態を教え、脱北者の証言会を全国の朝鮮学校で行うくらいに教育を是正するべきでしょう。

それをやらずに、立派な朝鮮人にはなれないでしょう。朝鮮同胞の現在進行形の地獄に目を背けるようでは、朝鮮人とは名乗れないはずです。

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